kanaderu3
<朝の短編小説> 20代〜40代女子のリアルな日常をお届けします

———————Vol.3 アリサの場合(36才)

10時半。カフェのシャッターを開けて、打ち水をする。地面は一瞬だけ濡れて色が変わるけれど、じりじり照らされてすぐに元通り。ため息をつく。

なんだかなあ。お店をはじめた最初の頃と、何かが違う気がするんだよなあ。

常連のおじいさんが来てくれて、いつものアイスコーヒーを出す。ミルクはなし、ガムシロップは多め。暑いねえ、なんて雑談して。笑顔作って。……あれ、私、何やってるんだろう?

変な美大生だった私に、普通の就職は無理だった。学校の成績はまあまあだったから、先輩に紹介してもらってむりやり入ったデザイン会社。お茶をくんだり、上司の机整理したり。仕事は私にばかり溜まってきて。

ある日突然、ごはんの味がわからなくなった。まるで、ゴムを食べてるみたいだった。会社のトイレの鏡に写る自分の顔は、能面みたいで。もう、こんなんじゃ働けないよ、って思った。

辞表を出して、アパートでゴロゴロしていた。あのときも夏で、窓の外からは蝉がうるさくて。実家の母親は電話で、旅行でも行ってきなさいよって、明るく笑ってくれた。

ニューヨークに滞在したのは、刺激的だった。巨大な美術館に毎日通いつめて、隅から隅まで巡った。自分のなかでもう死んじゃってた「アート」が、「シゴト」にして割り切っちゃってた「アート」が、立体的に浮き出てきた。

暑かったなあ。バス停でフラフラしていたら、黒人の女性が「水を飲みなさい」と、飲みかけのペットボトルを差し出してくれた。

おいしかったんだなあ、ほんとうに。ひからびた自分が、みずみずしい果肉のような体に戻れた気がした。

「おーい、アリーさーん。水をください。」

常連さんに言われてはっとする。氷は入れない、お薬を毎食後飲まれているからだ。近所に住んでいる方らしいけれど、会社に通っているうちは顔も知らなかった。

カウンターに戻って、自分のために水を汲む。レモンにミント、氷をたっぷり入れて。そうか、今の私は、ひからびてないんだな。大丈夫、大丈夫、と、こっそり胸をさすってみた。

撮影・執筆=川澄萌野