「おつかれさまです」を何度見送っただろう。今日も最後のひとりになってしまった。終わらない仕事をカバンに詰め込んで、消灯したオフィスをあとにする。

終電間際の駅のホームはひどく混雑していて、到着した電車から掃きだされる人と乗り込もうとする人たちが入り乱れる。

案の定座れるはずもなく、吊り革に支えられながら電車に揺られていると、目の前に座る女の子の鮮やかな赤い唇が目に留まった。長くカールしたまつげ、頬はうすく色づいて、スマホの上をすべる爪までも「ちゃんと」していて。

電車の窓ガラスに映る自分の顔には色もなく、雑に結んだだけの髪、疲れた顔。急に恥ずかしくなって、私は慌てて顔を伏せた。

電車が駅にとまる度、7cmヒールの背伸びがつらい。精一杯の強がりでグッと足を踏ん張ってみるけど、心はちっとも踏ん張れない。

あ、ちょっと限界かも。

最寄駅から少しだけ遠回りになる帰り道、街灯のない住宅街に「ゆ」の文字がぼんやりと浮かぶ。小さな銭湯だけど、この時間でも開いているのがありがたい。逃げ込むように、暖簾をくぐった。

1日のいろいろをこそぎ落すように体をごしごしと洗って、浴室奥の古びた扉をあける。

1段しかない狭いサウナ室の隅で小さく丸まって、守るように自分を強く抱きしめた。時計は見ない。

カラリとした熱で一度乾いた肌がだんだんと汗に包まれて、固くこわばった体と心が、自然とほどけていく。

求めるままに向かった水風呂は、柔らかくて、冷たくて、優しい。
ただ目の前の感覚に集中して、思考は溶けて消えていく。

虚しさも、強がりも、いったんここに置いていこう。
明日なにかあっても、なにもなくても、はじまりはマイナスよりゼロからの方がいい。

イラスト:町田メロメ
執筆:今日の子 (c)Pouch