「サウナ、いいっすよ」
そう語る、ひげ面で派手なTシャツのその上司が苦手だった。好きな服を着て、明るく充実した毎日を送り、趣味を語る姿がいつもまぶしかった。私みたいな凡人を、つまらない人間だと笑っているに違いない。
自分の無難な服装も、家に帰って寝るだけの毎日も、嫌いじゃなかった。ただ少し、慣れただけ。
年の瀬のある日、母と兄、家族三人で過ごす馴染みの宿では、兄の華やかな東京話で盛り上がっていた。胸を張って話せるようなことが私には何もなくて、虚しさが押し寄せる。お風呂行くね、とへたくそな作り笑いを残して、私はあわてて部屋を出た。
年末をここで過ごすのはもう何度目だろうか。
20年以上通ってもはや勝手知ったる大浴場でも、一度もあけたことがなかったサウナ室の扉が目に入った。
好きなものを真似たから、そうなれるわけではないのはわかっていたけど。あの自由な人がその目で見ている世界が知りたくて、私はその扉にそっと手を伸ばした。
携帯も本も持たないひとりの時間は久しぶりだ。
にぎやかな浴室から隔離されて、静かな時間がゆっくりと過ぎていく。
玉のように浮き出る汗。木の匂い。熱の重さ。この小さな空間に、知らないことばかりが溢れる。
「水風呂のためのサウナだから」上司がそう力説していたのを思い出して、静かな水風呂へと近づく。
最初は腰まで入ってギブアップしてしまった水風呂も、二回、三回と往復するうちに肩まで浸かれるようになった。限界まで蒸されたからだが心地よく冷やされていく。
露天風呂のふちに腰かけて、音もなく降る雪をぼんやりと眺めた。身体が軽くなっていくような、浮いているような感覚がなんとも気持ちいい。
もう、サウナに入った理由なんてとっくに忘れてしまっていた。
生活は変わらない。自分も。
でも、少しだけ新しくなった世界に、私は居場所を見つけた気がした。
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